報道で見聞きする、「○○の都市が空爆された」という言葉の裏にある現状を、何も理解できていなかったとうことに気づき、愕然たる思いが沸き上がりました。ただ愁いたり、罪悪感を感じて思考を止めてしまうだけではなく、まずは何か行動を起こす、という決意を新たにしました。
今回は、初めて感想会を開き、参加者とどんなことを思ったのか、印象的なシーンについてなどを共有する機会を設けました。
以下、参加者からの感想です。
・今の世界情勢と重なって心が痛む
・戦地で活躍した人たちも最後は亡くなってしまうことの無情さに慄く。
・空を見上げるのは自分にとって気分転換だが、戦地では戦闘機のために見上げているという事実に驚愕した。
・思っていたより笑顔が多い、しかし、戦争が日常に溶け込んでいて違和感があり、悲しい。
・戦争は昔のことと思いきや、実際には身近に起きている。ウクライナのことが思い起こされる。
・どうして現代にも戦争が起こってしまうのか、何年たっても過去から学ばないということにやりきれなさを感じた。
・男が残り、家族は避難。自分だったらと考えても決められない。
・情報量が多く、理解が追い付かない。
・最終意思決定で、暴力を選んでしまう人類の愚かさ。
・戦争で女性があまり出てこない。彼女たちはどうしているのだろうと考えた。
・笑っている子どもたちと戦う男性たちの対比を感じる。
・自分の命と引き換えに故郷を守る。 命と故郷、どちらが大切なのか。大切にする理由はなぜなのか考えている。
・誰も守ってくれず、自警でボランティアにもかかわらずなぜ行動できるのか。
・アレッポの戦地ではコミュニティが出来ていて、とても濃厚なものに思えた。現在の日本の都市などでは、これに類するようなコミュニティがないな、という点を思い起こさせた。
・どう弔うか、その方法を見て、文化的背景を推察した。
ハレドの子供との会話や向ける眼差しは、どこにでもある平和な風景であるが、そこは空爆が行われている最中の瓦礫と化した町であった。文字通り常に死が隣り合わせの中で、瓦礫に埋もれた生存者を救出しながら、自分の家族の命の安全について同様に考える。残るか、この地を離れるか。離れたところで安全は保障されていない。生きることが命がけになることにはかわりはない。しかし、家族を守りたい。苦悩、葛藤、救助、死体と向き合い、死者の数を報告する。ある日、彼らが公園の遊具で楽しむも束の間、戦闘機の飛来で避難する。標的とされないために集団で一箇所にいてはならない。そう、もはや戦闘機は、人を殺すことだけが目的で、戦闘員であるか、非戦闘員であるかは関係ないのだ。そのような戦時に彼らの日常があり、家族と過ごしている生活がある。子供や家族、兄弟を思う気持ち、同僚と冗談を言い合う普通の場がある。希望や未来はどこにあるのだろうか。果たしてそれを日常と言ってよいのだろうか。
何度も空爆を繰返し、ボタンひとつで爆弾を落とす行為に、「人殺し」という重みを麻痺させていると怖く感じた。どのようにこの行為を肯定することができるのだろうか。正義は勝者にあるのだろうか。これが同じ地球上で、同じ人間という生物がおこしているのである。映画は説明が多くないだけに、当事者達の会話から直面している悲しみや苦しみが、そのまま心に突き刺ささる。トークショーにおいて、安田純平氏の「無関心、無責任」という言葉が重かった。何が正しく、何を問題にすべきかを自分の頭で考えることだけが、過ちを踏みとどまらせてくれるブレーキとなるのだと感じた。