試写会ではチェ監督も撮影対象は「当局が用意したリストから私が選んだ」とのこと。
当局がこれなら見せてもよいと思える内容であることが大前提ということです。
そのような中でチェ監督は「北朝鮮のリアル」を掘り出そうとします。
象徴的なのは「あなたの夢はなんですか」との問いかけ。
この言葉を聞いたときに、北朝鮮の方々の顔に表れる心の機微。
若い女性の縫製工は「私の考えた服を大勢の人に着てもらいたい」と、
間髪を入れずに明るく答えます。
ある農家の奥さんは、逡巡したのちに「舞台に立つのが夢でした」。
用意された美しい北朝鮮の社会と人々の生活。
でもそこに映っているのは、普通に食べて、普通に話して、普通に笑う人々。
人間というレベルで見れば、私たちと何も変わるところはありません。
当局が見せたいのは社会システムであって個人ではない。
でも私たちは作品のすべてのシーンで個人の顔に触れることができます。
「知らぬが仏」という言葉がありますが、
登場する人たちは皆、迷いがありません。
他の選択肢を知らないからなのでしょうか。
しかし、人間の尊厳という視点で見ると、
本当にそれでよいのか、疑問を感じます。
繰り返しになりますが、まったく同じ人間なのですから。
権力が情報を操作することの恐ろしさ。
ありのままを知らされずに生きる人たちの姿は、
私たち日本でも以前に経験してきた姿と同じかもしれません。
現実を写すドキュメンタリー映画ではない。
しかし、ファンタジー映画でも、ましてプロパガンダ映画でも、ない。
試写会を拝見させていただいた。
試写後に監督は、本作の作成前に北朝鮮側の映画会社と事前に幾度も打ち合わせを行い、政治的なものにはしないと約束し、こういう人物を撮りたいと意向を伝え、双方問題ない形で撮影を行った旨述べていた。
本作は、いわば「映画監督」として撮りたいものと、北朝鮮側が見せたい、あるいは見せても構わないものの、最大公約数的なところで生まれたもののように思われる。
では、そこに見るべきものは何もないか、答えは否、である。
「北朝鮮の庶民の生活」との触れ込みを聞けば、飢えや弾圧に苦しむ庶民や独裁体制の恐ろしさを告発するような映像を「期待」してしまう。
他方で、2千万人を超す人々が一国の内で暮らすのであれば、そればかりなはずもない。
この映画に映される人々は、確かに北朝鮮側が映画化されて問題ないと考える比較的豊かな、あるいは「従順な」人々かもしれない。
が、仮にそうだとしても現にそうして生活している人々がいることに変わりはなく、また、そうした人々の生活すらも謎のベールに包まれている。
断片的ながらもそのベールを剥いだ本作は大変興味深かった。
有り体な感想を言えば、日本のテレビによくある、芸能人が田舎や外国を訪ねて現地の人と交流するような旅番組を観ているかのようだった。
政治的な事情を取り払い(あるいは行間に埋めて)、ライトなテイストで見知らぬ生活を紹介する、そんな印象である。
個人的に惜しむらくは、映画に登場する人々が北朝鮮の中で相対的にどのような位置にあるかわからず、例えば平均年収に対してどの程度の年収かなど統計的なデータが有れば、鳥瞰的な視点が加えられたように思う。
それをすると報道的すぎて監督の意図する「映画」ではなくなるかもしれないが。