様々な場面でぶつかり合いながらも、お互いを尊重し成長する姿に心が熱くなりました。
どの子どもも対話にとても慣れています。
そういう教育を受けてきたのでしょうか。
あるいは必然的に対話しなくてはいけない環境で育ってきたのかもしれません。
それぞれに背景も違えば、生い立ちも違います。
それだからこそ強くならなくてはいけなかったのか。
他の国での生活の厳しさがひしひしと伝わってきます。
とにかく話している内容が日本と違います。
言語とか宗教とか、私たちの生の本質に関わる根源的な部分。
それらについて自分の意見をしっかりと語り合っています。
意見を語れるのは、きちんと考えているからです。
こうした本質的なことを彼らが考えるのはなぜでしょうか。
教育でしょうか、環境でしょうか。
そして表面的には激しくぶつかりつつ、
それでもお互いを認め合っているという関係。
うらやましいなあと思いました。
このような話題で話すことは日本にはほぼありません。
特に若い世代は他人と当たることを避ける傾向があります。
彼らが制作した映画では「違いと共通点」がクローズアップされていました。
一人ひとり違う私たち。
一人ひとりに共通点のある私たち。
だからまず認め合うことが必要なのだと。
日本と海外では「NO」の意味が違うという指摘が参加者からありました。
日本では「NO」は「否定」の意味が強く感じられます。
違いを認めるよりは、違いをとことん避ける価値観なのかもしれません。
海外では、子どもの頃から意見を尊重されて育てられます。
ところが、日本では子どもの意見をまともには聞いてくれません。
こんなことも関係していそうに思えます。
子どもたちの言葉はおとなの鏡です。
まわりのおとながどのようなことを語り、どのような行動をするのか。
それが子どもたちの言葉となって表れているのですね。
文化や宗教という壁を越え、彼らはお互いをわかろうと不器用に衝突を繰り返している。
たまにふとみせる寂しげな表情に、移民としての辛い過去を垣間見て、胸がつまるようでした。
たどたどしく、それでもひたむきに。
自分を主張していこうと懸命にもがく彼らに、強さをもらいました。
人は、こうも強くあれるものかと感じさせてもらいました。
そして、彼らそれぞれを見据え、あらゆる偏見、差別の類いを度外視して、個人として生徒に向き合う先生の姿に教育者の鑑をみました。
最後のシーンは、涙をこらえられませんでした。
必見です。